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第0章 夏村さんは最凶です(2)

last update publish date: 2026-10-31 20:25:30

 そして、合格発表の日がやってきた。

 新設工事が終わったばかりの高校へ、俺は自転車を三十五分ほど走らせて向かっていた。

 もし合格していれば――これから毎日、この道を通うことになるのか。

 そんなことを考えながら、無意識にペダルを踏み込んでいた。

 荒川沿いの道は、噂通り風が強い。

 この日は特に向かい風がきつく、脚にじわじわと負荷がかかってくる。

 太ももが重くなり、息が上がる。予定より少し遅れて、ようやく校門が見えた。

 校門から玄関へと続く細い道は、舗装された一車線のバス通りと並行して伸びている。

 その両脇には、幅三メートルほどの遊歩道。等間隔に並ぶ桜の木は、まだつぼみのままだった。

 春を待ちわびるように、枝先だけが風に揺れている。

 ――俺も、まだ咲けてないな。

 そんな、どうでもいい感傷が頭をよぎる。

 自分でも苦笑してしまうほど、らしい発想だった。

 玄関前に近づくと、掲示板の前にはすでに人だかりができていた。

 泣いている者。飛び跳ねて喜ぶ者。呆然と立ち尽くす者。

 いかにも「合格発表の日」らしい光景だ。

 自転車を駐輪場に止め、鞄から受験票を取り出す。

 その瞬間、心臓の鼓動がやけに大きくなった。

 耳の奥で、ドクドクと音がする。

 番号を探す。

 目を走らせる。

 一列、一列、確かめる。

 ……あった。

 俺の番号が、確かにそこにあった。

 一瞬、「よし!」と声が漏れそうになる。

 反射的に周囲を気にして、必死で抑え込んだ。飛び跳ねたい気持ちを、喉の奥に押し戻す。

 正直な話、こういう喜びは第一志望の私立高校で味わいたかった。

 そんな未練が、胸のどこかで小さく疼く。

 でも、もうそんなことを言っている余裕はない。

 今の俺は、この一枚の番号に救われたのだ。

 受付で入学手続き用の封筒を受け取り、中を確認する。

 そこには「合格証」の文字。

 しばらく、それだけを見つめていた。

 その他の書類? 正直、目に入らなかった。

 この瞬間、世界の中心は「合格証」だった。

 興奮を抑えきれず、校門横の電話ボックスに駆け込む。

 まずは中学校に連絡した。担任が出たが、事務的に「はいはい、分かりました」とだけ言われ、すぐ切られた。

 まあ、想定の範囲内だ。

 期待もしていなかった。

 問題は、母だった。

 受話器越しに母の声を聞いた瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなる。

「……受かった! 合格したよ!」

 受話器の向こうで、母の声が弾んだ。

「ほんと!? よかったぁ……!」

 泣き笑いの声だった。

 あの母が、俺の不合格を心配して寝込むほどだったのだ。

 少しでも安心させられた。それだけで、胸がいっぱいになる。

 ……だが、そのときだった。

 電話ボックスの横を、十数人の集団がぞろぞろと通り過ぎていく。

 俺は一瞬で気づいた。

 ――受験の日、教室でたむろっていた「ヤンキーご一行様」だ。

 先頭に立つのは、あの女だった。

 革の学生鞄をぺたんこになるまで糸で締め、持ち手を長く改造して腕に引っかけている。

 ポケットに手を突っ込み、肩で風を切って歩く姿は、大名行列のようだった。

 周囲の受験生や保護者たちは、自然と道を開け、視線を逸らしている。

 俺は息を止めた。

 電話を続けるふりをしながら、全力で「何も見てません」オーラを放つ。

 ……だが。

 ふと、目が合ってしまった。

 やばい。

 心臓が喉に張り付いたような感覚。

 視線を逸らすのは逆効果だ――咄嗟にそう判断し、彼女の向こう側、存在しない何かを見つめるフリをした。

 彼女は、何も言わずに通り過ぎていった。

 助かった。

 そして、胸の奥で、奇妙なざわめきが起きる。

 ――違和感。

 それは、受験の日にも感じたものだった。

 彼女が、ほんの一瞬だけ……表情を緩めた気がした。

 恐怖でも、敵意でもない。

 柔らかい、微笑んだような……そんな錯覚。

 心臓が、ドクンと跳ねる。

 怖さとは違う。もっと落ち着かない、正体の分からないドキドキ。

 母の声が、受話器の向こうから聞こえてくる。

「もしもし? 和也、聞こえてる?」

「あ、あぁ……大丈夫。受かったよ。本当に」

 それは嬉しさだけが理由じゃなかった。

 ……この出会いが、俺の人生を変えてしまうなんて。

 このときの俺は、知る由もなかった。

 (ふーん……あいつも、同じ高校か。楽しみだな)

 もしかしたら、先頭の彼女はそう思っていたのかもしれない。

 ヤンキー集団を引き連れて掲示板へ向かう背中を、俺は呆然と見送った。

 その後、母は翌日には体調を取り戻した。

 俺の合格で、少しは安心したのだろう。家族全員が喜んでくれた。

 だが、この高校の評判を知っていたのは――家族の中でただ一人、妹の晏菜だけだった。

「おにぃ、合格おめでとう! 大変だろうけど、頑張ってね!」

 一見、素直な祝福。

 だが「大変だろうけど」という言葉に、妙な棘を感じた。

 その意味を理解するのは、入学してからのことになる。

 後日、倉持先生から「なぜ受験者が君一人だったのか」という理由を聞かされ、俺は二度目の衝撃を受けるのだが――それは、また別の話だ。

 俺が合格したのは、|埼玉県立浦和大鳳高校《さいたまけんりつうらわおおとりこうこう》。

 荒川沿い、浦和駅からバスで二十分。アクセス最悪の辺境に建てられた高校だった。

 入学当初はバス通学していたが、一週間で諦め、自転車通学に切り替えた。

 その理由も、いずれ語ることになる。

 男女共学、普通科。定員は一学年三百人。

 俺の入学時点で上級生は二年生しかおらず、上下関係の煩わしさが少ない点だけは好都合だった。

 将来の夢?

 そんなものは、もう持っていなかった。

 中学時代の反省を踏まえ、「目立たず、真面目に勉強して大学に進む」。

 それだけを、自分に課した。

 幼い頃からの趣味で食いつなぎ、最終的には文句を言いながらも実家を継ぐ。

 ――それでいい。そう割り切っていた。

 ……ちなみに。

 私立全落ちのあと、念のために用意していた二次募集用の内申書があった。

 二次募集は、学校同士が書類を直接やり取りする一般入試とは違い、受験生本人が窓口で内申書を受け取り、志望先へ持参する決まりだった。だからこそ、それは今も俺の手元にある。

 不要になったと思いつつ、気になって封を開けてみると……そこには、俺に対する予想以上にひどい評価が並んでいた。

 その瞬間、俺の中で「中学生活への未練」は、完全に断ち切られた。

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     ◇◇ 入学式当日 ◇◇ 決意も新たに、俺は鏡の前で頬を二、三発、軽く叩いた。 痛みというより「音」でスイッチを入れる感じだ。(よし。今日からだ) 登校の準備はできている。制服も、鞄も、書類も、靴も。 あとは母が部屋から戻ってくるのを待つだけ――のはずなのに、やけに落ち着かない。胸の奥がそわそわして、手持ち無沙汰で机の端を指でなぞってしまう。 俺は、人生をリセットするためにここに来た。 中学時代の“闇”を引きずらず、誰にも知られず、ただ静かに三年間を走り切る。 目立たず、揉めず、勉強して、大学へ行く。 そのための高校生活の始まりが、今日だ。 母が戻ってくると、俺たちは一緒に家を出た。 最寄りのバス停までは徒歩で数分。通学そのものは、たぶん不便じゃない。たぶん――。 俺と母は、バスが混むのが嫌だった。できれば座りたい。 だから少し早めに家を出て、『大久保浄水場』行きのバスに乗り込んだ。 大久保浄水場といえば、荒川の水を飲み水として市内に供給する場所で、小学校の遠足で見学したことがある。巨大な設備と、消毒薬みたいな匂いだけが妙に記憶に残っている。 そんなことを思い出すあたり、俺はやっぱり緊張していたのだろう。 バスに乗ると、俺と母は別々の席に座った。 時間が早いとはいえ、車内にはそれなりに人がいて、並んで座れる空席がない。 俺は窓側の席に腰を下ろし、窓枠に頬杖をついて外を眺めた。 十数分もすると、車窓の景色は都会から田園風景に変わっていく。建物の密度が薄くなり、空が広がり、畑が増える。荒川沿いの風のせいか、木々がどれも同じ方向に少しだけ傾いて見えた。 ――俺は、たぶん車内の景色をちゃんと見ていなかった。 緊張と興奮で、視界は外に向いているのに頭の中は別のことばかり考えていた。 このバスに、同級生になる人間が何人乗っていたのか、まったく覚えていない。 『大鳳高校前』で降りると、通学路は桜並木になっていた。 花が散り終わり、緑色の葉桜に染まった枝が風に揺れている。春はちゃんと進んでいるのに、俺だけがその流れに置いていかれそうで、ほんの一瞬、胸がざわついた。 校門をくぐり、校内の掲示板を見る。 そこには、各クラスの担任名と所属生徒の氏名がずらりと書かれていた。 一組、担任は渋谷先生。 一組という響きだけで、なぜか「幸先

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